昭和48年04月09日 夜の御理解



   (途中から)
 ガスで中毒しとるもんですから、泣きもきらんで、そして、今日これから先焼いて、焼いて、それでこれを全部、親指からとにかく五本の指一本しかなか、全部それがもう明日が手術だからというんですね、ある方を通してそのことをお届けさせて頂いたら、あの切るなと言う事を私頂いたんです、けれども、そのある教会で熱心に信心しておられる方ですから、まあ、その方は初めてそんな訳で、明日は手術だからというてお願いに参ってみえたわけですけどね。
 もう私話を聞きよってからね、どうした( ? )これば、ちゃんと分からん、中毒しとるから、こたつの上にこれ、そのただ( ? )とが分からなかった、それでもこれを焼いてしもうた、それでもう本当にここで親の不注意でこんな事になりましてちいうてから泣かれますけれども、私も泣こうごたったです、本当にまあなんち言う事、可愛そうなことじゃろうかと思うてね。
 けれどもあのただ私の不注意で、お詫びだけではおかげにならんようですね、なるほど、これは、なら親は目の前についとったっちゃ事故にあうようなこともあるしね、あのだからこれは、私は思うんですけどね、結局そういう難儀な思いをしなければならないというのは、そうならにゃんごつしてなっとるとです、これはもう突然にとか、偶然にとか言うけれどもね、突然とか偶然とかは実はないです。
 おかげを受けるともそうです、もうほんに毎日信心にあの磨いて参りまして、本当な所をいかして頂きよるともうそれこそ、天地のリズム音と言った様なものが聞こえて来る様になるから、天地のリズムに乗っての生き方、いわゆる神吾共にあるという本当な生き方が出来る様になると、もう素晴らしいタイミングの中におかげ頂いているんですからね。もうそれを不思議に思わなきゃおられないけれども。
 それは不思議じゃないです。もう当然そうなるべく、いわゆるおかげのあるを不思議というまじきものと仰るのはそうであってね、と言うてなら困った事が起こって来るのも、例えば、その親の不注意、またこの先生も、これは親の不注意じゃけん、お詫びせんのうといわれるそうですけどね、これはもう親がついとったっちゃ起こる、だから親の不注意、これはもう起こるべきして起こっておる。
 ただ問題はですね、今日は、私今朝から三代金光様、今の金光様のお歌の例をいうてね、「自らがちつじょを乱すに健康のくずるるはまさに当たり前なこと」と読んでおられます、例えばなら病気をご自身があぁして、なさっておられますけれども、それはなら自分がね、過去においてちつじょうを乱した生活をしておるから、これはまさに当たりまえな事として受けなければならないのだとこういうのである。
 だからいわゆる、御事柄として成り行きを大事にとかという受け、そういう受け方なんですね。そういう受け方がそういう、いうならば悲しいことを受けなければならないのですけれども、同じ悲しいというても、そのそこに至って来るとですね、あの改まった生活に入らにゃきゃならんという本当な信心は生まれてきますけれども、ただ詫びてメソメソしとるいうだけじゃない。
 次に当たり前なこととして、当然なこととしてそれを受けさせて頂く信心の力を得られてくる。だからそういうね、当然のことと偶然な事じゃなくて、それは必然だと言う事になる訳です。必ずそう言う事になる、それを、例えば私共の場合は日にちの中に何回も、何回も御気付けや、大きな事でならんことで済むように、小さく区切っても御気付けを下さるね、その御気付けを下さるところから。
 あのいわゆる秩序を乱しておるなと思って、その秩序を乱さんように心がけさせて頂く所から。正しい道が生まれてくる、例えば光昭がお話しておったのはそう言う事じゃないでしょうかね、だから間違う、間違ったらそれを正して行く事が次の本当な信心に進んで行く生き方に、いわゆる、ちつじょを乱さない所、音律を乱さない所の音色が出て来る訳であって、日に日にさらとはそういうな事ではないかというな事を言ってましたね。
   どうぞ。